もっこうさんですリターンズ

岩手県一関市の小さい工務店「菅原木工」がおくる、建築情報や趣味の情報をお届けしていきます。

【多賀城市】 多賀城を散策してきました。

多賀城跡

 仙台駅から東北本線下り普通列車に乗って十数分ほど陸前山王駅を過ぎた左側の小高い丘陵が見てきます。これが多賀城跡です。
多賀城跡は江戸時代から注目され、大正年間に調査・研究がされていましたが、本格的には昭和三十八年の調査が最初でした。それ以来現在も発掘調査は行われています。
 
 【立地と規模】
 多賀城は、仙台平野の東北部に位置し、松島丘陵から突き出した支丘の西端に位置し、丘陵の高さは52メートルでこの丘陵から沖積地にわたっています。
 丘陵は二本の谷によって東・西・中央の三つに分けられ丘陵上の平坦部に諸施設が設けられていました。
多賀城の全体の平面形は、丘陵に立地するため不整な四角形となっています。
 規模は東辺1000メートル、南辺860メートル、西辺670メートル、北辺770メートルで、総面積が74ヘクタールとなっています。
 これは、奈良の都の平城宮の120ヘクタールには及ばないものの、志和城(803年造営、岩手県盛岡市)と並ぶ規模となっています。

外郭の大部分が高さ5メートルの築地塀(土をつき固め、屋根をかけた土塀)で、東辺や西辺の低湿地では、材木を密接して立て並べた材木列の塀の部分もありました。
 現在でも築地塀の跡が残っている部分もあります。

 外郭の東辺築地塀は、当初のものが第Ⅲ期以降、内側(西側)へ40メートル移動して築き直されていることが明らかになりました。また、平安時代になると外郭築地塀の各所に櫓を設けるようになっていきます。
 外郭には南門・東門・西門があり、いずれも正面三間、奥行き二間のいわゆる八脚門でした。
東門と西門は時期によって位置を変えて建造されています。

 



 

多賀城跡

 
 政庁に対する儀礼的な意味をもつ城の正面である外郭の南門を入ると、南北道路があり、300メートルほど北進すると政庁南門につきあたります。
 外郭南門は丘陵上にあり南北道路はこの丘陵をいったん下ると、政庁南門まで上り坂になっています。
 国内の郡司や蝦夷は政庁で行われる儀式に参列することがあったので、丘陵を利用して外郭南門から政庁への参上する人々へ威圧するように設計されていたのです。

多賀城跡

 

 発掘調査と文献史料によれば、創建以降、多賀城は四期の変遷をたどっていることが明らかになっています。
 第Ⅰ期(724年前後~762年) 創建期
 第Ⅱ期(762年~780年)  多賀城碑にみられる天平宝字六年    (762)藤原恵美朝臣朝猟による修造から、宝亀十一年(780)伊治公呰麻呂の乱によって焼亡するまで。
 第Ⅲ期(780年~869年)  伊治公呰麻呂の乱の焼亡後の復興から、貞観十一年(869)の大地震により被害をうけるまで。
 第Ⅳ期(869年~10世紀後半)地震後の復興から廃絶まで。

 

多賀城碑


 多賀城碑は、碑文によれば天平宝字六年(762)に建てられ、他の文献史料によっては知ることのできない多賀城の創建と修造の年代を記しています。
 この碑は多賀城の外郭南門跡をはいり、南門から政庁南門に至る道路のすぐ東で、この道路の西面に向いて立ってします。
県道根白石塩竈線の南側で、南門跡の内側にあり江戸時代に建てられた覆屋に収められています。
 この碑は平成九(1997)年の発掘調査で、現在碑を据えている穴の下層に当初据えていた穴を発見し、碑が最初からほぼ現在地に立っていて一度倒れ、十七世紀前半に再び立て直されたことが明かになりました。
 碑の高さは196センチメートル、幅92センチメートル、厚さ70センチメートルの大きさで砂岩の自然石の一面を平滑に加工して文字を刻み、刻文面を西にむけてほぼ垂直に立っています。
 碑文の内容は、前半部分に、多賀城の位置を、京、蝦夷国界、常陸国界、下野国界、靺鞨(中国東北部松花江流域に居住した種族)国界からの距離で示し、後半部分に神亀元年(724)大野東人が建置し、天平宝字六年、藤原恵美朝獦が修造したことを記し、末尾に建碑した天平宝字六年十二月一日の日付を刻んでいます。
 多賀城碑は藤原恵美朝獦が多賀城を修造したことを記念し、かつ彼の造営事業を顕彰するために建てられた碑なのです。

 多賀城碑は平成十年六月、国の重要文化財に指定されています。

(出典 宮城県の歴史散歩  宮城県の歴史 )


【多賀城跡MAP】

宮城県多賀城市市川城前


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【富谷市】 小谷館跡を見てきました

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 富谷市成田から大亀山森林公園へ向かう市道沿いに「小谷館跡」の標柱を見ることができます。

 この館跡は、江戸時代の文献「石積村御用書出」によると、小谷豊後という武将が天正年間(1572~1592)まで居城したとされていますが、城の規模等は詳細がなく不明です。

山中には切りたった崖があり、また、頂部には建物があったと思われる平場を見ることができます。

(標柱より)


【小谷館跡MAP】

宮城県富谷市石積道栗


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【奥州市江刺区】鶴脛柵擬定地をみてみました。

鶴脛柵跡

 奥州市江刺区稲瀬地区、県道14号線より市道に入ると道路沿いに「鶴脛柵跡」の石柱を見ることができます。

鶴脛柵跡

 山の神神社の脇の丘が柵跡としてされています。

 

鶴脛柵跡

 柵は安倍氏の柵の一つで、安倍頼時の七男鳥海弥三郎家任がこの柵を守ったとされています。

柵跡は、東館・西館の呼称もあり空堀や土塁を見ることができます。


【鶴脛柵擬定地MAP】

奥州市江刺区稲瀬下台


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【パソコン】 NEC Mate MJ18EL-E CPUの交換をしてみました。

MJ18EL-E

 

 NECの法人用デスクトップPCを購入したので、今回もCPUを交換してみようと思います。

 

 今回の購入品は Mate MJ18EL-E です。

搭載されているCPUはインテル  Celeron G460(1.80 GHz 1コア、2スレッド)というちょっと非力なCPUとなっています。

 

MJ18EL-E

(CPU交換前 BIOS)

 NECのデスクトップのPCは背面のツマミをスライドさせることでカバーを外すことができます。

 

MJ18EL-E

 

 ファンの電源を外し、(+)ドライバーでファンとヒートシンクを取り外します。

 

 CPUを固定しているレバーを上げ、CPUを交換します。

 

MJ18EL-E

 

今回交換するCPUは、本体のチップセットがB75 Express ということで、 Core i3 2100 (3.10GHz 2コア、4スレッド) をヤフオクにて購入しました。

 

CPUの取付位置に注意してセット、CPUを外した手順と逆で組み上げていきます。

その際、ヒートシンクについているグリスをきれいにふき取り、新しいグリスを塗ります。

また、ヒートシンクやファンにほこりがついている場合は掃除してください。

MJ18EL-E

(CPU交換後 BIOS)

 PCを起動しBIOSでCPUが認識されたことを確認し、作業は終了です。

 

 この結果、Windowsエクスぺリエントが3.9から7.1へ大幅に上昇しました。

 これで性能の向上は間違いないでしょう。

 

CPU交換費用

CPU購入金額 2000円


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【花巻市】 同心屋敷を散策してきました。

同心屋敷

(同心屋敷)

 花巻市内、県道286号線より、外れた市道に2棟の茅葺屋根の建物を見ることができます。

 天正19年(1591)九戸の乱のとき鳥谷崎城(花巻城)の守備にあたった一族の浅野重吉は、配下の一隊30人を残して引き上げ、花巻同心組となり、城内二の丸馬場口御門の下馬場(現鳥谷崎神社南下辺)に住居を与えられて住みました。

 延宝8年(1680)御同心30人は、かつての奥州街道向小路(桜町)の延長100間の東側に15軒、西側に15軒に移り住み、これが現在保存している同心屋敷です。今の所在地は保存のため昭和55年3月に2軒を移築したものです。

同心屋敷

 

 旧今川家は解体時に鴨居に慶応二年と記されていたことから、この年に正方形に近い平面形状に改築されているものと推測されます。

 この建物は以前は大橋修理治の屋敷とされています。

 現在の旧今川家は屋根が葺き直され、往年の姿をとどめています。

 

同心屋敷

 同心屋敷

 旧平野家は保存状態も良好で、ほとんど改造のてが入らず、同心屋敷の典型的な遺構を今に残しています。

 かつては四戸民治の屋敷でしたが、明治45年に平野家が居住するようになりました。

 

 昭和54年12月12日に花巻市指定有形文化財(建造物)に指定されています。

(出典 一般社団法人花巻観光協会公式サイト)


【同心屋敷MAP】

花巻市桜町4丁目


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