JP大船渡線岩ノ下駅西側の市道と崖地一帯が鳥畑館跡となっています。
葛西重信の近習として使えていた千葉信胤の第四子の胤持が、永正十二(1515)年、磐井郡で百余貫を賜り鳥畑館を築き、鳥畑氏と称したと云われています。
その後、天正十三(1585)年四代堅長が薄衣城主と不和になり敗れ、大原城主をたよって亡命し、鳥畑館は四代71年で終止符をうちました。
鳥畑館は切り立った絶壁の上に、東西30m、南北70mほどの平地がありここが本丸と云われています。
この本丸を中心に土壇が4、5段めぐらせ、南西部に二の丸、三の丸跡があったとされています。
背面の北側は深い谷で、地の利を生かした断崖の山城になっていました。
現在館跡の一部は市道、墓地等になっています。
(出典:東山町の歴史)
【鳥畑館跡MAP】
岩手県一関市東山町松川岩ノ下
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西大立目館跡は国道284号線と県道267号線(松川千厩線)を結ぶ市道沿い、薄衣と門崎との峠の頂部付近に位置する近世の居館跡になります。
西大立目氏は伊達晴宗の代から仕えて御一族に列し、伊達政宗が仙台に移る時に西大目立重信が薄衣村約百石を賜り外山に居を構え、
明治期まで代々居住したと云われています。
西大立目館(外山館)は館地は二丁歩、敷地内には守護神熊野三社と岩永瀧川寺(廃寺)・馬場・家中屋敷あったとされています。
現在は宅地と畑地となっています。
(出典:川崎村の歴史)
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一関市大東町渋民地区旧街道からほど近いところに東川院という曹洞宗の寺院があります。
この寺院の観音堂の本尊である「木造聖観音坐像」(国重文)の修復に伴い、観音堂(RC造)の内装改修工事を行いました。
これまでクロス貼の内装から一部の木部を残し天井、壁を杉の羽目板、床も杉板貼りに変更しました。
展示スペース下に改修前にはなかった戸袋を設け収納スペースとしています。
【金谷稲荷山 東川院】
もともとは宮城郡七北田村洞雲寺の末寺稲荷山東川院で、大永元(1521)年栗原郡宮沢村に創建しましたが、
檀家が十戸に満たなかったため、明治初期の廃仏毀釈によって消滅しました。
この地には、永正十七(1521)年、大原の長泉寺の末寺として天説聞察和尚によって開創された金谷山長寿寺があったのですが、廃仏毀釈によって廃寺になった後、
明治三十年、地元の有志が曹洞宗宗務局、宮城県知事の認可を受けて、宮沢村の東川院を元の長寿寺に移し、長寿寺の敷地、建物、本尊その他財産、檀家を引き継ぎ、
両山号を合わせて「金谷稲荷山東川院」として復興し、現在に至っています。
【木造聖観音坐像】
運慶の作とされる木造で高さ114.3cmの寄木造りで漆箔で仕上げられています。
光背は透かし彫りで、頂部に大日如来1体と飛天8体を配しており、台座は高さ約80cmの九重蓮華座です。
「風土記御用書上」によると、東川院より東に藤原秀衡の開基とされる真言宗弥陀有頂山観音寺があり、ここの本尊であったとされています。
観音寺は明治初期に廃寺となり仏像や山門等の一切が東川院に移転安置されました。
本尊もその時移されたとされています
平成30年に国指定重要文化財となっています。
(出典:いわてのお寺を巡る 一関の文化財)
一関市大東町渋民小林
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登米市東和町国道346号線沿い、東和砕石㈲入り口脇の民家の一帯が梁川宗元の屋敷跡となっています。
登米伊達氏初代伊達宗直の三男又四郎宗元は、祖父である梁川宗清の姓を受け継ぎ、米谷村北方と鱒渕村の百四十三貫文(諸説あり)を拝領したとされています。
【梁川宗元屋敷跡MAP】
登米市東和町米谷吉田
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国立天文台水沢VLBI観測所より西へ向かった東北自動車道沿いの田園地帯の中に福原農村公園があります。
この場所は後藤寿庵の居館跡と云われており、館の東側には東西五町三十間(約600m)の侍小路があり、両側を屋敷割りをして家臣を住まわせました。
後藤寿庵の出自については諸説あり定かではありませんが、1612(慶長十七)年頃、諸外国に通じるということで伊達政宗の家臣となり千二百石をもって福原の領主となりました。
キリシタンでもあった寿庵は、宣教師などから学んだ知識をもとに胆沢地方に農業用水を引くことを考え、1618(元和4)年に胆沢川の上流から用水堰を切り開く工事を始めたことで
胆沢扇状地を開拓して有数の穀倉地帯といわれる礎を築きました。
しかしキリシタン弾圧のため1623年に逃亡したといわれます。
公園内にある寿庵廟は昭和六年に地元農民が私財を投じて建てられたものです。
(出典 岩手県の歴史散歩)
岩手県奥州市水沢西田
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